David Bowieの生誕の地、ロンドン南部ブリクストンの街を歩く PART 1

異星から来て異星に帰ったようなデヴィッド・ボウイ。しかし、彼の足跡はロンドンに確かにあったのです。ロックを愛する善福寺ユウコさんがデヴィッド・ボウイ生誕の地を2回にわたってエッセイに綴ってくれます。

 

世紀のスーパースター、デヴィッド・ボウイの死から3年。彼の足跡を追って、生誕の地であるロンドン南部の街、ブリクストンを訪ねました。

ブリクストンは、ロンドンの北東と南部を結ぶ地下鉄ヴィクトリアラインの南サイドの終着駅。ショッピング街のオックスフォード・サーカス駅や、グリーン・パーク駅から1本です。フォートナム・アンド・メイソンやリッツ・ホテルが建ち並ぶきらびやかな通りピカデリーから、チューブと呼ばれるロンドンの地下鉄に乗り込むこと約10分。地上にあがると、まさに「トンネルと抜けると、そこは…」という世界が広がっています。(実際、地下鉄はテムズ川の下を通るトンネルを通ります)ここは移民の多いレジデンシャルエリア。通りを行き交う人々も、カリビアン系、アジア系、ポーランド系…と、様々です。聞こえてくる言葉も、耳慣れないスラングや訛りばかりですが、レジデンシャルエリアならではの住民の生活感や活気が伝わってきて、先ほどまでいたピカデリーとの違いに驚かされます。

ブリクストンは、昔からアフロ-カリビアンの人たちが多く住む街で、1981年には警察の弾圧に対する大きな暴動もあり、多くの逮捕者とけが人を出しました。その後もとても治安がいいとは言えず、私がロンドンに住んでいた頃(90年代初頭)は、地下鉄の構内、駅のまわりに麻薬犬を連れた警官が巡回し、KFCも防弾ガラス越しの注文&受け取りという、正直昼間でも怖いエリアでした。

と、そんな「恐い」イメージがぬぐえなかったブリクストンが「ヒップ」で「クール」で「おしゃれ」(!)な街へと変貌したのは、90年代後半の好景気に支えられ、英国カルチャーが花咲いた「クール・ブリタニア」ムーブメントの頃から。その後2008年、マーケットとそれに隣接するアーケイドが民間デヴェロッパーに払い下げられると、アーケイドは「Brixton Village」と呼ばれるおしゃれ雑貨ショップやレストランが立ち並ぶ若者や新しいもの好きの人たちを惹き付ける場所へと変貌を遂げたのです。その中のオーガニックカフェで談笑するクリエイターたちを見たときに、「ああ、ブリクストンは変わったなあ」と実感したものです。今もウィッグや珍しい野菜を売るショップが少し残っていて、ブリクストンであることを思い出させてくれますが、イタリアンやアジアンのレストランの並びだけを見ていると、イースト・ロンドンのおしゃれタウン、ショーディッチにいるかのような錯覚を起こします。

さて、そんなブリクストンの駅前に鎮座する英国チェーンデパートの1つ、「モーリーズ」。このデパートの横壁に、目指すものがあります。オーストラリア人のアーティスト、ジェイムズ・コクラン氏によるデヴィッド・ボウイの壁画です。

ボウイの死直後は、ここは沢山の献花とメッセージで溢れました。その後、この壁画は自治体によって保護されることが決定、今は透明のボードで被われています。私がたずねたのは、彼の誕生日の前日の7日。もう花こそはありませんでしたが、10分ほどの滞在中、たくさんの人が訪れ、写真を撮っていきました。聞こえてくる言語は、英語のほか、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、チェコ語…。デヴィッド・ボウイが如何に世界中で愛されていたかが、よくわかります。壁画の前には、そんな観光客を見込んでか、「David Bowie STORE」のストールが!(笑)流石に「ボウイまんじゅう」は売っていませんでしたが……。

さあ、続いて、彼の生家を目指します。(PART2 へ続く)

Text/善福寺ユウコ

出版社勤務。小学生の頃から筋金入りのロック好きで専門は英国インディーズ。資格をとらない単なるオタクと自分を称しながら、特に旅行、街歩き、ワイン&ビール、食関係、映画、英国ドラマ、ロンドンに愛を注ぐ毎日。

 

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